老犬と暮らすということ 2
「老犬と暮らすということ 1」の続きです。
我が家の愛犬もみじ(16歳)の要介助生活が始まったのは2022年11月初め。
それまでは年月をかけてゆっくり歳を重ねていっている印象でしたが、その頃を境にグンと出来ないことが増えました。
きっかけはある日、壁伝いにぐるぐる歩いていたこと。壁を伝わないと体が傾いてまっすぐ歩けないようでした。
またこちらへの反応がすごく薄かったのも気になり獣医さんへ連れていきました。
同時に同じ頃、ほんのちょっとの障害物(以前ならひょいと乗り越えられたもの、簡単に迂回できていたもの)から抜け出すことができず、その前でじっと立ちっぱなしになってしまうことが多くなりました。
検査をいくつかしてもらいましたが、おそらく前庭疾患または認知症だろうとのこと。
また例え前庭疾患であっても、おそらく認知症もありそうだということでした。
視力がかなり低下していることも判明。
それ以前から加齢による視力低下は知っていたのですが、短い期間で結構視力が落ちていたようです。
具体的な主な介助は以下となります。一番はやはりお手洗い事情かな?
関節炎なのか、神経機能の問題なのか、後ろ足の踏ん張りが効かなくなっているのでおトイレの際に支えてあげることが必須。消化器系の持病の影響で、お手洗いのスケジュールが以前と比べイレギュラーなのでタイミングを測るのが難しい。(夜何度か起こされることも。)
幸い食欲はあり一人で立つこともできるので食事は今のところ問題なし。
ただ日によっては一人で立ち上がることが難しかったり、歩く際にふらついてうまく歩けない日があります。
認知症の影響で後ろに下がったりすることができないので、壁の前や部屋の隅でじっと動けなくなることがあり都度方向転換をお手伝い。
階段は自力では登り降りできないので、昼間はずっと同じ階にいます。夜だけ寝室がある階へ連れていくため抱っこで移動。上に挙げた理由から、夫か私どちらかが常にもみじと同じ階にいるように工夫。
犬の認知症によく見られるという夜間の旋回や夜鳴きは今のところ見られません。が、夜になるとパニック症状みたいなのを起こしがちなので寝かしつけに時間がかかったり、夜間起こされることも。
一番大変なのは夜通して眠れないこと、もみじが起きている間は転んだりして怪我をしないように常にチェックしたり、トイレのタイミングを見誤らないようこれまた常にチェックしていなければいけないこと、でしょうか。(子育てをしている皆さんからしたら、そんなの育児に比べればまだまだ!なのかもしれませんが…)
夜間の旋回や夜鳴きがないこと、また攻撃的な行動などが見られない分軽度の認知症なのかもしれません。
ただ嫌がることは増えました。
車移動はダメになりましたし、お風呂やヘアカットもものすごく嫌がります。
威嚇や攻撃こそしないもののパニック症状のようなものを起こしてしまうので、いかに手早く安全に終わらせられるかが最重要課題です。
とまぁ色々あるのですが、本犬は基本(パニック症状を起こす要因がない限りは)穏やかで幸せそうにしています。
だから私たちも半年以上の介護をして来れたのだと思います。
穏やかに佇んだりお昼寝したりしてる姿が本当に可愛くて愛おしくて。
犬の介護について調べる中、日本と北米の一番顕著な違いはペットの安楽死に対する考え方なのではないかと思いました。
日本ではペットの安楽死は本当に最終手段、動物が痛みや苦しさに耐えられなくなってからという考えが一般的な印象を受けます。
一方北米では、「安易に選ぶべきではない、そして対象はあくまでも治る見込みのない末期患者やシニアペットのみである」という大前提は日本と一緒ですが、動物の尊厳とQOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)を大事な項目として検討するべきという意見が多い印象。
これはね、一つの明確な答えなどない問題だと思います。
ただ選択肢の一つとして知っておくことは飼い主にとって大事、かと。
私はもし自分が患者(もしくはシニア)だったら、無理な延命治療ではなく安楽死という選択肢があってほしいと思っているタイプの人間です。
だから動物の安楽死もタブー扱いはしていません。(繰り返しますが安易に選ばない、健康な場合は対象外というのは前提の上で、です。)
7ヶ月間の介護(今も継続中)を通して思ったことは、どちらを選んだとしても第三者が口を出すべき問題ではないということ。
夜何度も起きてお世話するのも、お薬代や定期的な診察代を出すのも、毎日何度もお手洗いの後処理や掃除をするのも、弱ったり苦しんだりする動物と対峙するのも、愛する家族の一員を亡くす悲しみも、
どんな道を選んでもそれを受け入れなければいけないのは飼い主なんです。
周りにいろんなことを言ってくる人が例えいたとしても、その人たちが責任を代わりに背負ってくれるわけではない。
私の場合は16年間、誰よりも多くの時間をもみじと過ごしてきました。そんな大事な愛犬のための大きな選択を軽々しくするわけがないんです。
だから世間とか第三者の目などは気にせず、毎日向き合っている飼い主がその子のためにできることを選択したら良いのだということ。
それを実感しています。
その選択を見極めるのもまた、難しいのですけれど。
私たちも、安楽死という選択肢については夫や獣医師さんと話し合っています。できるだけ情報は持っていたほうがいいと思うから。
特に夫とはお互いの気持ちを都度きちんと確認して共有するようにしています。
昨年秋に認知症かもしれないという診断を受けてから、それまで「いつかはやってくるもの」とぼんやりとしか考えたことのなかったもみじの終末期が、現実味を帯びるようになりました。
それがまだ先のことだったとしても、「いつ何があってもおかしくない」状態、年齢であることは間違いありません。
その時を思うと寂しくて悲しくて怖くて何度も泣いていますが、でもきっと私はこの期間があって良かったと後々思うでしょう。
外出もままならず一日中つきっきりと不自由は多いものの、こんなに精一杯介護できる環境であるということをありがたく思います。
夫は元々激務ですし(それでも同じ熱意を持ってできる限りの介護をしてくれています)、
私もパートではありますが一応仕事をしており、今年初めから仕事が変わったので介護しながら新環境に慣れなければいけなかったり、
夫も私も定期的なボランティア活動をしていたり、
となかなかにハードな上半期でした。
それでも自宅で老犬介護しながら仕事ができる環境というのは本当にラッキーだと痛感しています。お互いの職場やボランティア先、また友人にも理解を示してくれる方が多く、本当にありがたいことです。
あとどれだけもみじが頑張ってくれるのかは誰にもわかりませんが、ちゃんと介護できたという事実はきっと少しの安らぎをくれるはず。
なぜでしょうか。
可愛すぎるパピー時代も、元気いっぱいで一緒に旅行に出かけたりハイキングした時代も、どれも大切な思い出ですが、
きっとこの穏やかに幸せなシニア期の思い出が一番の宝物になるような気がしています。
若かった頃の方が甘えん坊でずっとくっつき虫だったのにな。(そしてそれもすごく可愛かった。)
シニア期に入ってからなんだかめっきり精神的に自立して(認知症の影響でもあるのかも?)、一緒の空間には居たいがそこまでくっつかなくとも良い、みたいな感じなのに。
シニア期のもみじが一番愛らしい印象なのは、なぜなんでしょうね?
日々変わるもみじの様子(症状)を見ながら、今日の、今週の、今月のQOLはどうだったであろうかを考えます。
そんな日々はこちらの精神的にもなかなか大変。
介護は、心身ともにスタミナが要ります。(あとお金も。)
その一番の対価は、愛くるしいもみじの姿です。
抱っこして感じる命の温もりと、少し毛量は減ってしまったけれどまだまだふわふわな毛、変わらぬ真っ黒なお鼻に、少し白く曇ってしまった目。
シニア犬の可愛さを知ることができて本当によかった。
最後まで読んでくださりどうもありがとうございます。
Jun 5, 2023