平和への祈り、祖父の記憶
これは私の母方の祖父が遺した自叙伝からの引用である。
内容や前後に記された年月日から、ここにある2月25日は昭和20年つまり1945年の2月25日のことであると分かる。祖父はこのとき東京の気象技術官養成所に通っており、同年4月に養成所を卒業し東京の気象台に勤め始めた。そしてそれと同じ時期、大空襲を経験している。
この自叙伝は、もともと祖父の愛犬ダック(命名は私の姉、当時姉が好きだったドナルドダックから)の目線から祖父の人生を描くというものだったらしい。そこで自叙伝の題名は、「僕は駄目犬ダック」。人の言葉をよく理解する賢い犬ではあったが、何しろ臆病でそれでいて縄張り意識が強く荒々しさも持つ犬だった。何度か祖父の手を誤って反射的に噛んだこともあり、それで駄目犬ダックという題名になったのだと思うが、ダックは噛んでしまった次の瞬間にはことの重大さを理解し、反省と心配の表情を浮かべながら祖父の手をそっと舐めた。定年後時間を持て余した祖父と時を共にするのが大好きな、愛情深い犬でもあった。
自営業だった祖父は仕事を辞めた後、老犬になりつつあるダックと余生を過ごしながらワープロで自叙伝を書き始めた。
小さい頃の私の記憶には、ワープロをカタカタやる祖父の姿が焼きついている。が、祖父は生前この自叙伝を誰にも見せることを許さず、私たち家族は祖父の旅立ったあとでようやく長年の月日を経て自叙伝を目にするのである。私は祖父の他界後ほどなくしてカナダへ移民したこともあり、まだその全てを読むことができていない。次の帰省時の目標にしようと思う。
自叙伝は祖父の幼少期や学童時代から始まり、青春を過ごした前述の気象台時代、地元へ戻ってきてからの壮年期、初老期、そして老後までが綴られている。
ダックの目線で語られる部分もあれば、祖父の目線から語られることもあり、そこには少しずつ老いていくダックの姿と彼の最期も書かれていた。小さい頃から犬好きだった私はその箇所は特に涙なしでは読むことができない。
ダックの最期と気象台時代の章は私にとって深く思う部分があり、海を越えた私の元で大切に保管している。
自叙伝を遺したこの母方の祖父だけではなく、母方の祖母も、父方の祖父母も、それぞれにそれぞれの形で戦争を経験している。
母方の祖母は第二次世界大戦後まで、祖母の父の仕事の関係で樺太島に家族で住んでいた。戦後一家で日本へ引き揚げたらしいが、もしその船に乗れていなかったら日本に戻ってこれなかった可能性もあっただろうと聞いた。
父方の祖父母は日本の地方の田舎に住んでいたので、東京や広島、長崎や沖縄ほどの壮絶な光景は目にしなかったようだが、それでも食糧不足ではあったし、小さいころから家庭の手伝いや働きに出て、中学を卒業したかどうかもうやむやという子供時代を送った。
私の小学生、中学生の頃は学校の学習の一環で、祖父母や地域のお年寄りに戦争のことを聞いて調べるということが度々あった。辛い経験なはずなのに、私の祖父母は嫌な顔せず大事な勉強だからといつでも話をしてくれた。
その時の記憶は確かにあるが大人になってから母方の祖父の自叙伝を読み、改めて当時祖父の置かれた現実を知った。
これは死者10万人被災者100万人以上と言われる、下町大空襲の時のことだ。
1945年5月25日は山の手大空襲とも呼ばれ、こちらもまた大変に被害の大きかった空襲だ。
祖父の自叙伝の全てを読み終えていないから絶対そうであるかどうかは言い切ることができないのだが、少なくとも気象台時代の二つの章の中で、祖父は声高らかに反戦を叫ぶことも切々を平和の大切さを説くことも、していない。ただ淡々とそのとき起こったこと、周りの様子、そして自身のその時の思い短くを綴るだけだ。
そしてだからこそ、現実を突きつけられる。
戦争というのはこういうものだ、こういうことが起きるのが戦争なのだ、と。
壮絶、と一言で片付けてしまうにはあまりに厳しい生活だったのだろう。それでも祖父は、一人で上京していたから故郷の家族や実家は概ね無事であったはずだし、戦地へ行ったわけでも無いから、祖父以上に苦しい思いをした人はきっと数え切れないほどいたのだろう。
しかし、どんな苦境でも、どんな戦争の最中でも、そこに必ずわずかでも青春は存在する。
同じ1945年の気象台時代の章にこんな部分がある。
このほかにも、職場で誰が誰のことを好きだったとか、誰が綺麗で有名だったとか、とある女性に胸ときめかせただとか、そんな話が時折出てくる。
寡黙で色恋のことなど生前私たちの前では一切しなかった祖父だから、なんだかやけにくすぐったく微笑ましくなってしまう。(のちに出会う祖母のことも、美しい優しいと自叙伝の中でなんども繰り返し書かれていて、孫の私はなんだか嬉しくなった。)
戦争や空襲の恐ろしさ、物や食べ物が不足し不衛生な生活の厳しさ、読みながら思い巡らしては私も苦しくなるくらい強く心に刻まれるような文が次々と綴られる章だったが、私にとって一番鮮明に見えたのはここだ。
この一節は、「タンゴ、『黒い瞳』を聴くと懐かしく思い出される、美人ではないが長い睫毛と切れ長の目がとても神秘的な」とある女性を回想する場面のすぐ後に書かれている。
私には想像することしかできないほどの壮絶な時代でも、心華やぐ青春としての時間が確かに祖父とその周りにはあったのだ。
そしてもちろん、その真っ只中にいながら突然それを奪われたであろう人生も。
この世の全ての人が戦火に怯えることなく青春を謳歌できる日は果たして来るのだろうか。
祖父の書いた自叙伝は、祖父の経験を蘇らせ私の中に新たな記憶を残してくれた。
私は今年30歳になったのだが、もしかしたら私と同世代くらいの人たちが、第二次世界大戦を実際に経験した人たちから直接話を聞く機会を得た最後の世代かもしれない。
だから、祖父の綴った記憶を私もどこかに残しておきたいと思った。
こと世界平和に関しては、何を書いても陳腐に聞こえてしまう気がして、一体どう自分の気持ちをまとめたらいいのか難しい。
私は、祖父母があの時代を生き抜いて私まで命を繋いでくれたことに感謝しているし、今カナダの地で「外国人」である私が平和に暮らしていられることにも感謝している。
たとえ安っぽく聞こえたとしても、大人が次の世代に伝えるべきことはやはり、平和の大切さなのかもしれない。
子供も大人も明日を無邪気に語ることができる今を生きている私たちが、どんなに幸せなのかということ。
私は、戦争を経験したくない。それが私の率直な思いだ。
戦地へ行くのも嫌だし、大切な誰かを戦地に送るのも嫌だし、戦場と化した街で震え逃げ惑うのも嫌だ、怖い。
例えば夫を戦地へ見送る、なんて想像もしたくない。どんなに弱虫でも卑怯でもいいから行かないでくれと泣き叫ぶだろうし、非国民でもいいから生きていてくれと願うだろう。
子供を持つ人はもちろん、子の安全と幸せを何よりも強く願うだろう。
私には愛犬がいるから、戦時下の犬猫などのペットが辿ったであろう運命を思うと胸が締め付けられる。
私には大事な人たちがいる。その人たちや自分が味わうかもしれない恐怖や苦痛を思えば、祈りは叫びのような思いに変わる。
その思いが消えないように、私は祖父の記憶を私の中に留めておくべく、毎年8月にはめくるのだ。気象台時代の章のページを。
2017年8月、祖父をしのんで
あとがき。
長い文をここまで読んでくださりありがとうございます。今回は文末を簡潔にしたく、いつものブログ記事とは文体を変えました。
こういった繊細な話題について書くのは少し怖い部分もあり悩みましたが、何度も書き直しながら、やはり残しておきたいと決めました。
祖父の自叙伝からの引用内容について、歴史的事実と違うとか、表現が適切ではない、などもしかしたら思う方がおられるかもしれません。祖父は他界しておりその真なる意図を本人に聞くことはもうできませんので、その辺りはどうぞお手柔らかにお願いいたします。
戦争や世界平和というスケールの大きな話ですが、できるだけ風呂敷を広げすぎず、祖父の自叙伝とそこから生まれた自分の気持ちという枠からはみ出ないよう心がけました。拙い文章ですが、お説教という目的ではなく、ただ祖父の遺してくれたものと自分の気持ちを記しておきたいという思いです。
表紙の写真は、祖父と愛犬ダック、祖父の自宅にて撮影されたものです。フィルムで撮影し現像したものを、家族にスマホで撮って送ってもらいブログに記載することができました。
祖父とダックが同じ表情をしているところ(二人とも嬉しそうだし楽しそう)がとてもお気に入りの一枚。ダックは撫でられ喜んでいるし(尻尾をブンブンしてます)、祖父もおそらくそんなダックを見て「よーしよし」とか「ワンワン!」みたいな声をかけているのだろうと思います。
私の祖父母世代はすでに洋装が当たり前の世代ですが、この祖父は晩年も普段から着物で過ごしていました。着物の方が楽なんだそうで、洋服は仕事や家周りの修理時などのほぼ作業着のみ。幼い頃から私の中の祖父の印象は渋く着物を着こなした姿なんです。
祖父が他界したのは私が二十歳くらいの頃だったので、もっと大人になった今や10年後祖父と話がしたかったなぁ。
だからその分、今も健在な母方の祖母と父方の祖父母との時間を大切にしなければと思います。